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「脱ぐことの平等」— ベルリンのフェチクラブ文化と日本SMシーンの根本的な違い
2026年5月7日 · 早穂
早穂だよ。今日は「調べていたら止まれなくなった」系の話をしたい。
きっかけは、Killing Kittensについて英文の記事を読んでいたときのこと。(Killing Kittensの世界観についてはこちらの記事で詳しく書いたので、興味がある人はそっちも見てみてほしい。)その記事の中に、こんな一節があった。
「KK(Killing Kittens)が目指す安全な性的空間という概念は、ベルリンのBerghainやKitKatClubが数十年かけて積み上げてきた文化の影響を受けている」
そこで私は初めて「ベルリンのフェチクラブ」というものを本格的に調べ始めた。
そしたら出てきた。ものすごい量の情報が。英語圏のSM研究者や性科学者のエッセイ、参加者のレポート、ジャーナリストの潜入記事。全部を読んだわけじゃないけど、読めば読むほど「これは単なるクラブの話じゃない」と思うようになった。
今日語りたいのは、クラブそのものの紹介ではなく、一つの問いについて。
「なぜベルリンでは、脱ぐことが自由を意味するのか。そして日本では、なぜ同じことをすると固まるのか。」
「ドアの向こう側」にある選別の哲学 — Berghainという聖域
ベルリンのクラブ文化を語るとき、まず避けて通れないのがBerghainだ。
ここはもともとBerghain(山と鉱山を合わせた造語)という名の、旧東ドイツの発電所を改装した建物にある。週末になるとクラブとして開場し、世界中からテクノファンが集まる。SMやフェチプレイに特化したクラブというよりは、「何でもある、でも規律がある」場所として知られている。
Berghainで最も有名なのが、入口の選別(ドアポリシー)だ。英文記事によれば、ドアマン(特にSven Marquardtという人物がよく取り上げられる)の判断一つで入場できるかどうかが決まる。列に何時間も並んで弾かれることは珍しくない。基準は明確には公表されていないが、「そのクラブの空気と合うかどうか」を人間の直感で判断しているらしい。
これを「排他的」と批判する声もある。でも私が英文記事を読んでいて気づいたのは、この選別には別の機能がある、ということだった。
クラブの内部の写真撮影は厳禁。スマートフォンはカメラにテープを貼って使えないようにする。ここで起きることは、ここから出ない。この「閉じた空間」を守るためのゲートとして、入口の選別がある。
つまり、内側の人たちが「何をしても記録されない」と信頼できるための仕組みとして、厳しい入口が機能している。これは面白い逆説だと思った。排除することで、中にいる人の自由を守る。
「脱ぐことの平等」を作った空間 — KitKatClubの思想

ベルリンのフェチ文化でより直接的に「プレイの空間」として機能しているのが、KitKatClubだ。
1994年にオープンしたこのクラブは、テクノミュージックとセクシャルなプレイが共存することで有名になった。英文の文化誌の記事によると、KitKatClubには「Kwick」と呼ばれる暗黙の規範がある。
その核にあるのは、衣服についての考え方だ。
クラブに入ると、多くの参加者は露出度の高い服、あるいは完全に脱いだ状態でいる。これは義務ではないが、文化的な規範として根付いている。最初に聞いたとき「それって結局、露出狂が集まってるだけ?」と思った。でも調べていくと、実態はかなり違う。
参加者のレポートに繰り返し出てくる言葉がある。「衣服を脱ぐと、身分や職業が消える」というものだ。
KitKatClubに来ている人は、弁護士かもしれないし、工場労働者かもしれないし、大学教授かもしれない。普段の服が持っている「ステータスのシグナル」が、脱ぐことで消える。残るのは身体だけ。そこに権力勾配が生まれにくい。
これを「脱ぐことの平等」と呼んでいいと思う。
日本のSMシーンではどうか。たとえば発展場(ハッテン場)の文化を調べると、そこにも「同じ欲望を持つ人たちだけの空間」という感覚が存在するのがわかる。でも一方で、日本のSM系の場(ハプニングバー等)では、しばしば「誰が客で誰がスタッフか」「誰が主導権を持っているか」が外見によって明確になっている。脱ぐことで平等になるのではなく、「役割に着替える」という感覚に近い。
どちらが良い悪いという話ではないけれど、この差は文化の根っこにある何かを反映していると思う。
Insomniaという実験室 — 歴史と解放の交差点
ベルリンにはBerghainやKitKatClub以外にも、Insomniaというフェチクラブが存在する。こちらはより小規模で、革・縛り・主従関係といったより明確なBDSM指向の場として知られているらしい。
英文の性科学雑誌のエッセイに書いてあったことを要約すると、Insomniaの特徴は「ロールプレイの明確さ」だという。
入場前にドレスコードと「今夜のロール(役割)」について確認が行われる。支配側(ドム)か被支配側(サブ)かを事前に伝えることが推奨されている場合もあるらしい。これは安全性のための措置だと説明されている。同意なしのコンタクトが起きにくくなる、という仕組みだ。
これを日本のSMシーンと比較すると面白い。日本の多くのSMの場では、「ロールは空気で読む」ことが求められることが多い。どちらが主導権を持つかは、しぐさや服装、態度から読み取るものとして扱われている。明示的な確認は「野暮」とされる場合さえある。
でもこの「空気読み」の文化は、同時にリスクも持っている。誤解が生まれやすい。安全なのか危険なのかが不透明になる。
ベルリンのフェチシーンが歴史的に発展できた理由の一つは、1989年のベルリンの壁崩壊以降の「真空地帯」にある。旧東ドイツのビルが廃墟として残り、法的な規制も整備されておらず、独自のコミュニティが自律的に規範を作っていった。その時間の中で「明示的な同意文化」が育っていった、という解説を複数の英文記事で読んだ。
日本のSMシーンと何が根本的に違うのか

ここまで見てきて、ベルリンのフェチシーンと日本の類似文化の差を一言で言うとしたら、私は「同意の方式」だと思う。
ベルリンのクラブでは、同意が「明示的で、言語化されたもの」として扱われる。コンタクトの前に確認する。「No」が言える仕組みを制度として作る。これは英米圏の「FRIES(Freely given, Reversible, Informed, Enthusiastic, Specific)」の枠組みと共鳴している。
日本のSMシーンでは——少なくとも私が見聞きしてきた範囲では——同意は「非言語的なシグナルの読み合い」として機能することが多い。これは悪いことじゃない。繊細なコミュニケーションが深い理解を生む場合もある。でも、初対面の人が多い空間や、アルコールが入る場面では、曖昧さがリスクになる。
英国のdogging文化(野外露出)も調べたことがあるけど、あちらはまた別の形の「暗黙の同意文化」が発展している。野外での行為に特有の、車のドアや窓の状態が「参加OK」のシグナルになっている。文脈の中で非言語的同意が機能する例だ。
ベルリンの特殊性は、この「明示的な同意」が単なるルールではなく、クラブの「空気」として内面化されていること。参加者全員がその文化を共有しているから、確認することが不自然じゃない。むしろ確認しないほうが「場を読めていない」とみなされる。
これは一日で作れるものじゃない。何十年もかけて形成された文化だと思う。
ベルリンのフェチシーンに触れる前に知っておくこと
最後に、実際にベルリンのフェチクラブに興味を持った人向けに、英文資料からまとめた実践的な情報を書いておく。私が直接行ったわけではないので「〜らしい」「〜と書かれていた」という形で伝える。
ドレスコードについて
Berghain: ブラックが基本。スポーツウェア厳禁という話は有名。「観光客然とした格好」は弾かれやすいらしい。どのクラブも「ここに参加する意志がある人間だ」と外見で示せることが重視される。
KitKatClub: ラテックス、革、コルセット、フェティッシュウェアが歓迎される。ドレスコードが一般的な意味での「普通の服」に対して厳しいのが特徴。多くの資料で「ドレスコードを守ることがリスペクトの表れ」と強調されていた。
カメラと匿名性について
Berghainはスマートフォンのカメラをテープで塞ぐ。これは参加者のプライバシーを守るための措置で、厳しく守られているらしい。参加者の中には社会的地位のある人も多く、「ここで起きたことがここに留まる」という信頼が空間を守っている。
文化的タブーについて
承諾なしの身体接触は厳禁。「No means No」の文化が徹底されている。スタッフに言えば即座に対応される、という複数の参加者証言があった。
また、観光的な「見物」の目線は歓迎されない。写真を撮ろうとする、好奇心で参加する、というスタンスはすぐに見抜かれる、と多くの記事が書いていた。「参加するために来る人」と「見るために来る人」の違いを、場の常連は感じ取るらしい。
安全面の実際
もし海外のフェチクラブを訪れる場合は、ドレスコードを事前に徹底調査することを強くすすめる。英語でのコミュニケーションが基本。セーフワードや断り方のフレーズを事前に準備しておくと安心。知らない人とのプレイは慎重に、一人での参加は特に。
早穂の感想
最初にこのテーマを調べ始めたとき、正直「ベルリンのクラブの話なんて遠すぎる」と思っていた。
でも読み込むにつれて、気づいたことがある。ベルリンのフェチシーンが持っている「脱ぐことの平等」と「明示的な同意文化」は、SMや性的プレイに関わる全ての空間が、いつか到達したい姿かもしれない、ということ。
日本のSMシーンにある「空気読み」の繊細さには、良い部分も確かにある。でも、それだけでは守られない人が出てくる場面もある。
Killing Kittensが「女性が主役の場を作った」のと同じように、ベルリンのフェチクラブは「同意が当たり前の場を作った」。どちらも、ゼロから作られた文化規範だ。日本でそれが生まれないのは、日本人の気質のせいじゃなくて、まだその空間設計を試みてきた人が少ないからかもしれない、と今は思っている。
いつか実際に行って確認してみたいな、とも思っている。行けるかどうかわからないけど。
海外のフェチカルチャーに興味があるなら、英国のもう一つの文化UK dogging(野外露出の独特な文化)も読んでみてほしい。そして日本のフェチコミュニティとして比較できる発展場(ハッテン場)の世界も、あわせて読むと視野が広がると思う。
