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マルキ・ド・サド以後、SMはどう変わった?——欧州の倒錯文化を19世紀からざっくり追う
2026年3月21日
「サディズム」の語源となったマルキ・ド・サドについては以前調査した記事で触れた。サド侯爵が1814年に死んでから200年以上が経つ。では、そのあとSM文化はどんな経路を辿ったのか。サドが播いた種がどこでどう育ったか、ざっくり追ってみた。
マゾッホ登場——「マゾヒズム」という語の誕生(1870年代)
サドの死から半世紀後、今度は「マゾヒズム」の語源になる人物が現れる。
レオポルト・フォン・ザッヘル=マゾッホ(1836-1895)。オーストリア・ガリツィア出身の貴族・作家で、生前は汎スラブ主義の人道的作家として名声を得ていた。しかし後世に名を残したのは、1870年に刊行した小説「毛皮を着たヴィーナス」(Venus in Furs)のせいだ。
内容はこうだ——主人公の男が支配的な女性に服従し、毛皮をまとった女主人に鞭打たれることを自ら求める。モデルは実在の女性・ファニー・ピストルで、マゾッホは私生活でもこうした関係を実践しようとした人物だった。
この小説が精神科医の目に止まる。
**リヒャルト・フォン・クラフト=エービング(1840-1902)**は、1886年に「変態性欲」(Psychopathia Sexualis)という伝説的な書物を刊行した。サディズム・マゾヒズム・フェティシズム・同性愛など、数百の性的「倒錯」症例を体系化した精神医学の古典だ。ここで彼は明言している——「痛みや屈辱を受けて性的快感を得るこの傾向は、ザッヘル=マゾッホにちなんでマゾヒズムと呼ぶのが正当だ」と。
こうして「サディズム」(サドの名から)と「マゾヒズム」(マゾッホの名から)が19世紀末に揃った。皮肉なのは、マゾッホ本人は自分の名が病理名にされることをひどく嫌がっていたことだ。
クラフト=エービングの本はラテン語で性描写部分を書く(医師以外に読ませないため)という工夫をしたが、かえって広く読まれた。後にフロイトもこの本に影響を受け、1905年の「性理論三篇」でサドマゾヒズムを精神分析的に論じていく。
ワイマール期ベルリン——SMサブカルチャーが「場所」を得た時代(1910-1930年代)
19世紀末から20世紀初頭のベルリンは、欧州の性的サブカルチャーの震源地だった。
マグヌス・ヒルシュフェルト(Magnus Hirschfeld)は1919年、ベルリンに世界初の性科学研究所「Institut für Sexualwissenschaft」を設立した。同性愛、トランスジェンダー、フェティシズムの研究・支援を公的に行う施設で、開設初年度に3,500名以上が来訪した。
同時期のベルリンには100を超える性的少数者向けバー・クラブが存在し、1928年から1931年にかけては「Monmartre im Toppkeller」でBDSM系のレズビアンナイトが公開で定期開催されていた。マッサージ院が性的SMサービスの隠れ蓑として機能し、新聞広告では「strict(厳格)」「genuine(本物の)」などの隠語でサービスを示していた。
施設には革の乗馬鞭、鞭打ち台、スパイク付き鉄球、ラバー製の人形が確認されており、顧客は経験レベルによってカテゴリ分けされていた——まるで現代のBDSMクラブのような運営だ。興味深いことに、「ヴァンダ(Wanda)」という女性名がSMサービスの施設の暗号名として普及していた。これはザッヘル=マゾッホの「毛皮を着たヴィーナス」に登場する女主人公の名だ。
しかし1933年、ナチスがヒルシュフェルトの研究所を破壊・閉鎖する。蔵書は燃やされ、ベルリンの解放的な文化は暗闇に沈んだ。

O嬢の物語——1954年のSM文学の傑作
第二次世界大戦後、SMは文学の形で再び水面に出てきた。
1954年、フランスで一冊の小説が刊行される。著者名は「ポーリーヌ・レアージュ」——しかしこれはペンネームで、実際の作者はアンヌ・デクロ(Anne Desclos)という女性作家だった。タイトルは「O嬢の物語」(Histoire d'O)。
内容は過激だ。パリのファッション写真家「O」が恋人に城館へ連れて行かれ、複数の男たちの共有的な性的玩弄物として鞭打ちや拘束による「調教」を受ける物語だ。デクロは後年、「マルキ・ド・サドの作品を称賛していた恋人ジャン・ポーランへの愛の手紙として書いた」と語っている。サドの影がまたここで出てくる。
翌1955年にフランスの文学賞「プリ・デ・ドゥ・マゴ」を受賞したが、同年当局が猥褻罪で出版社を起訴。4年間の裁判の末1959年に無罪判決。未成年への販売は1967年まで禁止された。英語版は1965年。著者デクロは自分が作者だと認めるまで40年かかった。
同時期、アメリカでは別のルートでSM文化が可視化されていた。ニューヨークの写真家アーヴィング・クロウがボンデージ写真・8mm映像を通信販売で頒布し、モデルのベティ・ペイジ(Bettie Page)が1950年代のSMピンナップアイコンとなった。ペイジはドミナトリクスと被虐者の両方を演じ、「史上初の著名ボンデージモデル」と評される。
ゲイレザーシーンとBDSMの誕生(1970-1984年)
現代的なBDSMの形式が整うのは1970〜80年代のゲイレザーコミュニティだ。
第二次世界大戦後、帰還兵たちがバイククラブを作り、カリフォルニアとニューヨークでレザーサブカルチャーが形成されていった。その文化を初めて体系化したのが、1972年にラリー・タウンゼンドが刊行した「Leatherman's Handbook」だ。ゲイレザー・SMの作法・倫理・テクニックを初めて書物の形にまとめた画期的な一冊で、「20世紀を変えた100冊のゲイ&レズビアン本」にも選ばれた。
フィンランド人イラストレータートム・オブ・フィンランド(Tom of Finland、本名:トウコ・ラークソネン)の影響も見逃せない。1957年に北米のゲイ雑誌に初掲載された彼のレザー・バイカー・制服姿の筋肉質な男性イラストは、その後のゲイレザーコミュニティの美意識と「クローンルック」を形成した。
そして1984年9月23日、フォルサム・ストリート・フェア(Folsom Street Fair)の第1回がサンフランシスコで開催された。もともとは開発業者からサウス・オブ・マーケット地区を守るための近隣祭りとして始まったものが、徐々にレザー・BDSMイベントに変貌していった。初回参加者は約3万人。現在ではカリフォルニア州第3位の屋外イベント、「世界最大のレザーイベント」となっている。
SSCの誕生——「合意」がルールになった日(1983年)
今でこそ「安全・合意・正気」はBDSMの基本原則として広く知られているが、それが初めて明文化されたのは1983年だ。
ニューヨークの「ゲイ・メール・S/Mアクティビスト(GMSMA)」の設立文書に「SSC(Safe, Sane, Consensual)」という概念が初めて登場した。発案者のデイヴィッド・スタインは子供の頃の「安全で正気な7月4日を」というフレーズからインスピレーションを得たと語っている。
このSSCは1987年のワシントン大行進でスローガンとして使われ、広く定着した。後に「RACK(Risk-Aware Consensual Kink:リスク認識のある合意的プレイ)」という派生概念も生まれた。なぜ命令されると安心するのかという心理についてはまた別で掘り下げてるけど、この「合意」の概念が確立したことが、SMを「暴力」ではなく「文化」として語れるようにした転換点だった。
欧州の現代フェティッシュクラブ(1980-2000年代)
大西洋を挟んで欧州でも動きがある。
英国では1983年秋、ロンドンのソーホーに「Skin Two」クラブが開業した。革・ラバー・ユニフォームでの入場が必須というドレスコードのある近代的フェティッシュクラブの先駆けで、翌1984年には同名の雑誌も創刊された。
1990年10月にはTorture Garden(トーチャー・ガーデン)が創設される。ロンドン発のこのフェティッシュクラブは初回約100人から始まり、1990年代後半には一夜で3,000人を動員するまでに成長。現在も欧州最大のフェティッシュクラブとして知られる。
ベルリンでは1984年にイースター・ベルリン(Easter Berlin)が公式のフェスティバルとして定着し、2004年にはFolsom Europeが初開催された。初回3,500人、近年は約25,000人が来場する欧州最大のレザー・フェティッシュストリートフェアだ。

BDSMという語の成立(1991年)
「BDSM」という略語が初めて文字として記録されたのは1991年6月20日だ。Usenetニュースグループ「alt.sex.bondage」への投稿の中で使われた。B&D(ボンデージ&ディシプリン)、D&S(ドミナンス&サブミッション)、S&M(サディズム&マゾヒズム)の複合略語で、「サドマゾヒズム」という蔑称的ニュアンスを避けるための新語として1990年代中盤に定着した。
インターネットの普及がBDSMコミュニティを一変させた。孤立していた愛好者が世界規模でつながり、コミュニティが急速に拡大・可視化された。マゾヒズムの快楽と痛みの分析でも触れているように、この「つながり」がSMを「個人の奇癖」から「共有できるカルチャー」に変えた。
サドが1814年に死んでから、SMは「病理」として記述され(クラフト=エービング)、「文学」として表現され(O嬢の物語)、「地下クラブ」として実践され(ベルリン、ロンドン)、「合意のある遊び」として再定義され(SSC)、そして「オンラインコミュニティ」として世界に広がった。200年で随分と遠くまで来たものだと思う。
SMの始め方や具体的なプレイに興味があるなら、歴史の流れを踏まえた上で読むとまた見え方が変わるかもしれない。
