少女の恋はレモングラスの香り

[小説]1話完結

 窓を開けると、私は小声で名前を呼んだ。

 閑静な住宅街の上には満天の星空と明日の記憶が輝いていた。

「ゆーちゃーん」

 私がそう呼ぶと、ゆーちゃんがガラガラと窓を開けて手を振った。

「くるみー。まだ起きてたの?」

「ゆーちゃんこそ」

「明日日直だから私はもう寝るよー。昨日夜更かししてたらお母さんに怒られちゃった」

 そう言ってゆーちゃんは窓越しにもう一度手を振って、再びガラガラと窓枠を引いた。

 扉が閉まる直前に、ゆーちゃんは言った。

「くるみ、私の名前は有里だからね。明日、家を出て私に会ったらいつもみたいにゆーちゃんって呼んでね」

 窓が閉まると、私も自分の部屋の灯りを消してベッドに横たわった。

 ゆーちゃんと私は幼馴染で私たち二人とも来年には高校生になる。お互いに最後の中学校生活を楽しもうと夏は初めて二人だけで電車とバスに乗り、海へ行った。「ゆーちゃんとてもいい匂い!どこの香水?」そう言って私は水着姿のゆーちゃんに抱きつくとゆーちゃんは嬉しそうに私に抱きつき返してきたそうだ。

 そんな夏も終わり、秋学期の期末テストも無事終わってあっと言う間に12月になった。

 今年の冬は寒いからと、ゆーちゃんがくれたのだというマフラーを最近は毎日学校の登下校に使用している。

 翌日、私は玄関を出ると一人の少女に出会った。少女は私と同じマフラーをしていて、そう、なにか覚えのあるレモングラスの香りがした。

 少女は私の手を握って「寒いから…」と少し照れながら学校へと歩き出した。

 すると、先ほどまでいい天気だった空が曇りはじめ、チラチラと雪が舞っていくのだ。

「くるみ。雪だね。今年の冬は寒くなるから」

「あの…なんだか私、あなたのこと、昔から知っている様に思います。多分ですけど…この爽やかなレモングラスの香り、とてもいい匂いね。それと、私の名前はくるみっていうの?」

少女は握り合った手をぎゅっとして、なんだか嬉しそうな表情で私を見つめて言った。

「有里。私の名前よ。遠慮なくゆーちゃんって呼んでね。…ってこれ毎日言ってるんだけどなぁ。(笑)」

「ゆーちゃん。そう。あなたの名前はゆーちゃんね。どこかで見た顔だわ。それに私、手を握られた時になんだか胸の奥がふわふわして温かくなったの」

 ゆーちゃんんは「あはははは。そうね。ありがとう」と言って私の肩に頭を伸せながら歩いた。

 

 私たちはこうしてもう、何年も一緒に歩いているみたいだった。

 

 私は幼い頃に車の事故で頭を打撲したらしい。その後遺症で左足の僅かな麻痺と、記憶を失ったようだ。私の記憶はそれから一日しかもたないようになってしまったそうだ。毎朝起きると、そこには何となく見覚えのある景色と香りや音が広がっている。そんな毎日をもう6年以上過ごしているというのだ。

 

 「ゆーちゃん」という少女は毎日私が登校するために玄関を出る時間に、私を待っていてくれている。

 私はなんのためらいもなくゆーちゃんにしがみつき、毎日いろんな話を聞かせてもらっている。

 

 学校が終わり、私とゆーちゃんは帰路についた。

「欅坂のサイレントマジョリティー。これ昨日くるみがずっと聞いていたのよ。私の片方のイヤホンを貸して!ってきかなかったんだから」

「そうなの?ごめんゆーちゃん。ねぇ。今度にカラオケ行こうよ。いいでしょ?」

「くるみ昨日も私と二人で行ったのよ」

「あら、そうなの?ごめん…ゆーちゃんとのカラオケなんて絶対楽しいじゃん。なのに私、なんにも覚えてないのよ。ちょっと悲しいわ。

 ゆーちゃんは私から手を放して進む方向に駆け足で歩いていった。そして振り返って私に言った。

「くるみ!私はくるみのこと絶対何があっても忘れないわ。カラオケなんてもう4日も連続で行ってるのよ。でも私毎日楽しい。そのマフラー。高校生になっても使ってね!」

「…家まで競争!」

「えっ。ゆーちゃんずるい!待って!」

 そして私たちは走って帰った。

 雪のちらつく、とても寒い12月のある日の夕方だった。曇り空に陰った景色が、私たちにだけ木漏れ日を注いでくれていた、ような気がした。

 

「はぁ。はぁ。…。ちょっと…ちょっと待ってって言ってるのに…」

「くるみ、息切れ過ぎよ(笑)」

「ゆーちゃん…本気で走るから…はぁ…っと」

 お互い横並びの家の近くにさしかかり、ゆーちゃんは私の手を引いて街路樹に誘った。ゆーちゃんは少し息をきらせて顔を私の首に近づけて言った。

「今日で最後なの」

 そう言ってゆーちゃんは私の首筋を優しく噛んだ。

 私は目を見開いて少し上を向いてちらつく雪を見ていた。

 ゆーちゃんはその後、目を閉じて私にキスをした。

 私も目を閉じてゆーちゃんの唇の体温を確かめるようにゆっくりと顔を近づけた。

 私たちは、お互いの口を何度も付け合って、お互いの口の中で何度も何度も舌を絡めた。

 時間が止まった、気がした。

 ゆーちゃんはゆっくりと私の唇から口を離して、無邪気に笑っていた。私はドキドキする胸の音を全身で感じながら微笑んだ。

 

「じゃあまた」

「うん」

 

 そう言って、私たちはお互いの家に帰った。

 

 

次の日、私は朝起きると同時に、時計を見て、「あ、急がなきゃ」と思い慌てて身支度をした。階段を下りてキッチンにいる女の人に「おはよう」と言って玄関を出ようとした。女の人は言った。

「くるみ、朝ごはんくらい食べていきなさい」

「お母さん?そうお母さんね。要らないわ。遅刻よ。いってきます」

 私は玄関を出ると何となく見慣れた景色に空虚さを感じた。そして玄関のの扉を開けて「お母さん?」と女の人を呼んだ。

「どうしたの、くるみ」

「あの…なんかいつも私って一人で登校しているの?」

「あら、有里ちゃんがいつも一緒じゃない。でも宮下さんち、家族で昨日引っ越したのよ。有里ちゃんに聞かなかったの?」

「そう。知らないわ。有里ちゃんて私の友達だったの?」

「そうよ。ずいぶん仲よさそうにしてたじゃないくるみ」

「そうなんだ。分かった。じゃぁ」

 そう言って私は一人で歩いた。学校ってこんなにも遠かったかなぁ、などと思いながら歩くのだった。

 交差点にさしかかり、信号待ちをしていると爽やかなハーブの匂いがした。私はその匂いを「懐かしい」と、ふと思ったのだった。

 

雪のちらつく12月のある朝のことだった。

 

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